岸八の枕:王様と爺さんの、どっちも一世という話
連載「岸八の枕」第7回。瑠海国王が音楽教師・岸浦汐と非公式に面会していたという記事を読んだ落語家が、同じ漂着一世として思うところを語る。
国王様が、岸浦先生のところへふらりと寄られたという記事を読んだ。けっこう驚いたが、もっと驚いたのは、自分がちっとも羨ましくなかったことだ。うちにも国王様が来てくださったら、という想像を一瞬してみたが、来られても出す座布団が一枚しかないので、どのみち無理な話だった。
岸浦先生とは漂着仲間として、何度か顔を合わせたことがある。あの人は子守唄の人で、わたしは落語の人間だが、どちらも「一世」という同じ看板を背負って半世紀をやってきた。国王様が「あなたも一世なんですね」とおっしゃったという一文を読んで、ああ、それだけで十分だったんだろうな、と思った。噺の世界で言えば、枕の一言で座が温まることがある。あれと同じだ。説明はいらない。
考えてみれば、わたしたち一世は、みんな同じ日に同じ場所に流れ着いた、という以外に共通点が何もない連中だ。歌をやる者もいれば、落語をやる者もいる。王様の血筋の方もいれば、深川で指物をやる熊系の家もある。それでも「一世」という言葉だけで、初めて会った相手の肩の力がすっと抜けることがある。これは説明のつく話じゃない。説明がつかないまま使える言葉というのは、案外得なものだ。
子守唄を少し歌われたそうだが、あれはきっと、うまいかどうかを聞かれたわけじゃない。向こうが聴きたかったのは、歌そのものより、歌われてきた時間の長さの方だろう。わたしの落語だって、客が笑いたいのはオチの出来より、半世紀分くたびれた間の取り方の方だったりする。
来年、うちの市長さんが瑠海へ行かれるそうだが、どうせなら窓芸の一席でも持って行ってもらいたいものだ。向こうで通じるかどうかは知らないが、通じなくても構わない。こちらが半世紀かけて拾ってきた間を、ただ見てもらうだけでいい。



